2019年7月27日土曜日

無数の「一人で死ね」を聞きながら


 多数の被害者を出す自暴自棄気味で残忍な事件が起きると、
必ずと言っていいほど「死にたいなら一人で死ね」という声が
世間に吹き荒れます。

● 橋下徹氏、京アニ放火事件で青葉容疑者へ
     「一人で死んで欲しい。他人を犠牲にしていいのか?
                社会でこういうことは言い続けるべき」 (スポーツ報知)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190727-00000057-sph-soci


 「死んでいい命」も「死ぬべき命」も、ありません。
 1つもありません。
 それを1つでも認めてしまえば、世の中には「尊い命」と「尊く
ない命」とがあることになり、必ず「命の価値のランクづけ」という
発想に結びつきます。


 巻き添えになった方々のご遺族が「一人で死ね!」と怒ることは
当然のことだろうと思います。
 ですが、周囲(社会)が考えるべきことは、報復感情を増長させて
犯人をリンチすることではなく

なぜ犯人が犯行に及んでしまったのか。

なぜ社会は食い止められなかったのか。

どうすれば「2人目」を出さずに済むか。

ではないでしょうか。


 きれいごと言うな!
 遺族の前でもそれを言えるのか!という怒声に、
 「だれもが存在しているだけでかけがえのない価値がある」という
憲法13条の理念が、いかに市民に浸透していないか気づかされます。

 一人ひとりの自分らしい人生よりも「世間に迷惑をかけないこと」や
「世間体」を優先しがちなこの社会では、実は人権思想は、とても
受け入れがたいものかのかもしれません。

 愚直に…

 愚直に、地道に、憲法カフェをがんばろう、と決意を新たにします。