文部科学大臣に就任した柴山昌彦議員が、教育勅語を「普遍性を持っている部分が
見て取れる」と評価し、「同胞を大事にするなどの基本的な内容について現代的に
アレンジして教えていこうという動きがあり、検討に値する」とも述べました。
●初入閣の柴山文科相、教育勅語“普遍性持つ部分ある”(TBS NEWS)
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn…
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自民党の「総裁特別補佐」として改めて“重用”されることとなった稲田朋美議員も、
防衛大臣だった当時、教育勅語を高く評価して「日本が道義国家を目指すというその精神は
今も取り戻すべきだと考えている」と答弁していました。
繰り返しになりますが…
教育勅語が、まるで、「夫婦仲むつまじく」「友達を信じ合おう」等々、人間としての
教育勅語が、まるで、「夫婦仲むつまじく」「友達を信じ合おう」等々、人間としての
徳が書かれた「だけ」のものかのように語られることが、ままあります。
森友学園の理事長だった籠池氏も、「教育勅語がどうして悪い。何かことがあったときは
自分の身を捨ててでも人のためにがんばりなさい。そういう教育勅語のどこが悪い」と発言
していました。柴山大臣や稲田議員の発言も、同じような意味だと思われます。
でも、それは大きな大きな誤解です。
教育勅語は、人間としての徳をただ列挙したもの、ではありません。
それらの『徳目』は、すべて「いざとなったら天皇のために命を捨てて、永遠に続く天皇
の栄光を支える」ために身につけよ、という位置づけで書かれているのです。
徳を身につける目的はすべて、天皇のために命を捨てる人間になるため。
教育勅語は、いざとなったら天皇のために命を差し出す「忠実なる臣民」とは、どういう
人間か、を、明治天皇が臣民に「教えてくださった」もの。
これを徹底的に国民に教え込んだ日本は、文字通り軍国主義まっしぐらの歴史を歩むことが
「できました」。
どっからどう見ても、教育勅語は個人の尊厳や、自由、民主主義といった発想とは
真逆の世界観の文書なのです。
「いいことも書いてある」などと評価する人は、さきほど解説した教育勅語の「本質」を
知らないか、知らないふりをしているか、どちらかです。
柴山大臣も「普遍性のある部分」云々おっしゃいますが、天皇のために命を差し出す臣民
になるべしという普遍性のない「本質部分」に、否定しがたい執着がどこかにあるのではない
でしょうか。でなければ、わざわざ教育勅語を21世紀の民主主義国家で教材に使おうなんて、
ありえない発想です。