デモは、注目されてこそ意味があるので、必然的に大きな音・声になり、交通規制も
必要になります。
デモの現場の日常が「乱される」ことは、デモに内在していることです。
仮に「誰の迷惑にもならないところでやる」となると、究極的には山奥や海岸で
実施するしかなく、そうなるとデモの「受け手」もいないので、デモをする意味が
ありません。
大きな音・大人数・派手なパフォーマンスですることでこそ、それを見る人に
「どんな問題を訴えているんだろう」「なんでこんなに怒っているんだろう」という
関心が生れ、メディアも報じます。
行政は憲法尊重擁護義務を負う立場として、むしろどれだけ国民の表現の自由を行使
しやすくできるか常に検討しなければなりませんし、地元住民の「平穏に暮らしたい」
という願いとのバランスも、よくよく慎重に考えなければなりません。
ちなみにかつて最高裁は、パブリックな場所での集会を「不許可」とすることが許さ
れるのは、「集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共
の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと
限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、単に危険な事態を生ずる蓋然性
があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見される
ことが必要である」という判決を出しています。
こ、れ、く、ら、い、「ものをいう自由」は、大切に保障されなければなりません。
一律のデモ規制というのは、あまりにも、「ものをいう自由」を軽視した暴力的な政策だと言わざるを得ません。