「国旗・国歌「見解合わぬ」教科書 都教委が「不適切」議決」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013062790135304.html
都教委からの電話を受けて、採択を見合わせた高校もあるそうです。
今回のテーマは、歴史の教科書。
歴史を学ぶのは何のためでしょうか?
「入試に出るから!」…そのとおりです。
では、入試に出して、生徒を競争させてまで歴史を覚えさせるのは何のため?
趣味でやる人はいいけど、興味もないのに学ばなくてはならないのはなぜでしょうか。
その一つの答えとして、「歴史から、これからの社会を作るための教訓を学ぶため」
ということが挙げられるのではないでしょうか。
王様の時代に自由を奪われた人たちが、王様の権力を縛るきまり「憲法」を作ったという歴史。
その歴史を学んだから、民主主義の時代に生きる私たちも、立憲主義の憲法を作って権力を縛ることができるのです。
そうすると、私たち国民・市民が学ばなくてはならないのは、権力にとって都合の悪い歴史。
かつて王様が、みんなの自由を奪っていたこと。
王様に与えられた自由では、結局王様に奪われてしまうということ。
最近起こったできごと…無実の罪で人を刑務所に入れてしまったことや、
生活保護の「水際作戦」で餓死者を出してしまったことも、振り返って活かすべき「歴史」の一コマ。
人は失敗から学ぶといいます。
事実を学んで、評価して、考えることで将来に活かすのです。
しかし、権力としては、教科書に不都合な事実や不都合な評価が載ってしまうと、
昔みたいに自由を縛ろうとしても、歴史を学んだ市民に見抜かれてうまくいきません。
今回問題になったのは、
国旗掲揚と国歌斉唱について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」
と記した一節でした。
「強制」って書いてあったら、生徒たちは
「強制って何をしたの?従わなかった人は何をされたの?」と疑問を持ちます。
先生は、「起立・斉唱しなかった教師が懲戒されました。」などと具体的に教えます。
そうすると、生徒たちは
「そうか、歌わないと懲戒、というのなら強制っていえる。」
「先生は仕事で歌うのだから、仕方ないんじゃないの?」
「そういえば、江戸時代には“踏み絵”ってあったよね?どこが同じでどこが違うだろう?」と、
議論して考えることができます。
そうすると、歴史について知識を得るだけではなく、
憲法や自由について自分の頭で考える体験もできるのです。
そして、権力の行動を「これは強制か?憲法違反ではないか?」と意識的に見て、
自分の考えを持てるようになります。
それなのに、東京都の教育委員会は、
「記述は都教委の考え方と相いれない」という理由で、採択しないよう働きかけたのです。
これでは、「強制」と評価された事実もなかったことになってしまい、
「強制があったのか?」を考えるきっかけすら奪われてしまいます。
ところで、自民党憲法草案は、教育や歴史に対する言論について、何と言っているでしょうか。
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第二十一条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
第二十六条
1 全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
2 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
3 国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。
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“公益及び公の秩序を害することを目的とし”ているかどうかを決めるのは誰でしょう?
「政府の見解に合っていない教科書は秩序を乱すから、使ってはダメ!」
なんて言いやしませんかね?
それが、「教育環境の整備に努めなければならない国の責務です!」なんて…
その昔、“普通選挙”なんてキラキラ魅力的な名前で始まった選挙は、
25歳以上の男子にのみ選挙権を認める、実は制限選挙でした。
そんな“普通選挙”法が公布されたのは、あの治安維持法が制定されたのと同じ1925年でした。
コトバだけではなく実態を見なくてはならない、ということもまた、歴史の教訓です。