三谷幸喜ファン待望の新作映画『ギャラクシー街道』。
観に行こうかな?と思っているのに、ネット上の下馬評が気になって迷っている方もいらっしゃるかもしれません。
そんな方は、未来の宇宙を舞台にした映画の世界を、憲法という視点から眺めてみることで、
たとえばYahoo!映画あたりの評価とは違う楽しみ方を見つけられるのではないでしょうか?
「時は西暦2265年、木星と土星の間に浮かぶスペースコロニー(宇宙空間に作られた人工居住区)「うず潮」。
そこと地球を結ぶスペース幹線道路「ルート246666」」(※映画公式サイトより。)
の沿道にある、宇宙のハンバーガーショップを舞台とするこの映画。
当然、地球人もやってくれば、地球人と同じ外見の宇宙人も、そうでない宇宙人もやってきます。
地球の常識なんて通用しません。
宇宙人に会ったことなんてない(ほとんどの)私たちは、
地球人同士の小さな違いがもとで争ったり憎み合ったりしますが、
宇宙人のあんな生態やこんな習性に比べれば、
地球人同士の違いなど、なんてちっぽけなものなんでしょう。
とはいえ、あまりにも大きすぎるその違いを、簡単に受け入れられる者だけではありません。
序盤、ハンバーガーショップにカエル型宇宙人・ズズが来店し、マグロバーガーを注文するのですが、
店主のノアは、接客した妻を呼びつけて、追い出すように言います。
カエル型宇宙人が座ると、椅子が濡れるから、と。
結局、カエル型の彼はブルーシートを敷いた座席で食事をするのですが、
「お店に来た客が、特定の人種(宇宙人の場合は人種じゃないのか…)、
または民族だからという理由で入店を拒否される」ということは、
ここ日本でもときどき起こっています。
最も有名なのは、小樽の銭湯で、日本国籍を持つ外国出身男性が、
外見が外国人であるという理由で入浴を拒否され、訴えを起こした事件でしょうか。
この事件では、男性の入浴を拒否することが、人格権という重大な利益の侵害であって、
不法行為(人の権利や利益を侵害すること。損害賠償が発生する理由になる)
にあたる、という判断がなされました。
こういう場合、「侵害をされた」と訴える側も、訴えられる側も、
国や地方自治体などの権力ではなく、どちらも市民(個人や、個人が経営している会社)です。
そういう場合、裁判所は、直接「憲法違反」とは言いません。
なぜなら、あすわかファンの皆さんはすでにおわかりかと思いますが、
憲法とは、主権者である国民が、権力を縛るために「これを守って政治をしなさい」と突き付けるものであって、
市民同士のルールを直接定めるものではないからです
(それを定めるのは、民法など法律の役目です)。
とはいえ、法律を制定するのは、国(国会)です。
国会が法律を作るときには、憲法を守らないといけないのは当然ですが、
それ以上に、憲法が実現させようとしている理念、
簡単に言えば、すべての人が生まれながらにして自由で平等な存在として生きていく、ということを、
ただ国が守るだけではなく、国ががんばって、市民にも浸透させていかなくてはならない。
だから、国が法律を作ってそれを適用する(使う)ときにも、
憲法の言っていることを生かすようなやり方で、しなくてはならないのです。
だから、たとえば不法行為(人を殴ってけがをさせたら損害賠償だよ、とかそういう話)について定めた法律(民法の709条に書いてあります)を使うときに、
人種差別をしたり、その他憲法14条に書いてある平等に反するようなことや、
憲法13条に書いてある個人の尊重に反するようなことをやったら、
(正確には、やった方の権利利益と比較するなどの調整を経て、ですが…)
そのことで傷ついた人の精神的損害を賠償しなくてはならない、と判断されることがあるよ。
という結論になるわけです。
(※このことを、専門用語で「間接適用」といいます。
民法とかの、市民同士のルールを定めた法律を通して間接的に、憲法の理念を実現させるという意味です。)
映画の舞台は宇宙なので、さすがに日本の憲法は及ばないと思いますが、
立憲主義は世界じゅう(宇宙も?!)で共有されていくべきルールです。
もし、店主が「カエル型入店禁止」などと言い出したら、訴えられて負けてしまうかもしれません。
「国民は憲法を守る義務がない」のはそのとおりですが、
国が憲法を守るために積極的になればなるほど、
国民も、憲法に書いてあることを前提に、お互いを尊重して生きていくことが必要になってくるのです。
(いや…。まさか、ズズちゃんでこんなに引っ張るとは。笑)
あまりにも、いろんな人(?)がいすぎる宇宙の世界。もし誰かが、
「足元がビショビショのカエル型は、汚いから出て行けー!」
「●●人は見た目がオッサンのくせに出産するな!出て行けー!」
「人前でも構わず脱皮する●●人は不快だ!出て行けー!」
なんて言い始めたら、物語は成立しなくなってしまいます。
そんなことを言わないで、自分たちとは全然違う生命体の存在に、驚いたりたじろいだり困惑したりしながらも、
何とかお互いを受け入れて成り立っているのが、
未来の宇宙、そこに生きる者たちの社会なのです。
違いを認めない心は、地球外生命体への夢やロマンも打ち砕いてしまうもの。
広い宇宙も、その中にある小さな地球も、多様であることに意味があります。
宇宙人と交流する時代がいつ来てもいいように、
まずは地球人同士が、いろんな違いを受け入れながら、みんなで生きていく。
「個人の尊重」をうたった憲法は、そんな未来の世界をも見通しているのかもしれません。
いつ宇宙人に出会っても、恥ずかしくないような我々でありたいものです。
(製作側にもうちょっと欲をいうとすれば、
冒頭で露わにしてしまった店主の差別感情を、うまーく回収するようなストーリー運びを考えてほしかったなぁ…。)