2017年10月10日火曜日

やや日めくり憲法9条 戦争の放棄が憲法に入ったのは


日本国憲法 9条〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実
 に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は
 武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久
 にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



 みなさんよくご存じの9条です。1項では「戦争の放棄」、2項では
「戦力の不保持、交戦権の否認」が謳われています。
 かなり徹底した反戦・反軍の平和主義といえます。




この9条は、戦後、自衛隊や日米安保体制などが違憲ではないかという
疑問が出されたり、改憲を求める人たちからは変えるようにと強く主張
されてきました。今も、安倍首相の「加憲論」が取り沙汰されています。


 では、そもそも、なぜ9条は、かなり徹底した反戦・反軍の平和主義を
採用したのでしょう。



憲法の前文には、こう書いてあります。

 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを
決意し、…この憲法を確定する」と。


これは日本国憲法の前の大日本帝国憲法のとき、日本の軍隊が権力を持ち
すぎて暴走し、無謀な戦争に突っ込んで、結果として、国内、国外の両方で
多くの戦争被害を出した、ということに対する強い反省があります。


 特に、1930年代、
国内では、32年の5.15事件、36年の2.26事件など軍人たちが、
自分たちの気に入らない政治家(しかも、時の総理大臣も含む)などを暗殺
してしまったり、首相官邸を武力で占拠してしまったりしました。

 また、国外では、31年の満州事変、37年の日中戦争における南京進撃
など、派遣先の軍隊が勝手に大規模な軍事行動に走って戦争を開始・拡大した
りと、とてもじゃないけど近代的な法治国家とは言えないような暴走をして
いました。

 このことがアジア太平洋戦争での悲惨な戦争被害の結果の原因となったこと
から、日本国憲法は、かなり徹底した反戦・反軍の平和主義を採用したのです。


 これは、権力の行使を憲法で制限して、国民の権利自由を守ろうとする立憲
主義の考え方にもマッチするものです。


 もし、日本が、戦後このような9条を持たず、大日本帝国憲法の手直し程度
の憲法であったなら、場合によっては、戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争などの
戦争に日本も参戦し、多くの日本人が戦争の中で殺し合いをさせられ、死んで
いったのかもしれません。
 今後、もし日本が対外戦争への参加ができるようになった場合、最悪のケース
では、また70数年前の悲劇を繰り返すことになるかもしれません。
 そのようなことがないよう、我々国民は「不断の努力」を怠らないことが
必要だと思います。

 私たち戦争を知らない世代が、直接戦争の被害を受けたことがないこと
自体は、とてつもなく幸せなことです。
 ですが、自分や家族、大切な人たちの命が常におびやかされたり、食べ物や
生活物資が足りないなど貧困におちいったりしない、その「平穏な生活」が
当たり前のものになっていると、戦争は他人事となり、どれくらいひどいもの
かも分からなくなり、戦争が起きている国の方々の苦しみにも無関心に
なっていく危険もあります。

 差別や貧困など、暴力(戦争)を生み出す温床がいくらでもはびこる現代
社会は、まだまだ戦争が起きる可能性をはらんだままです。
 戦争を知らない世代が、「戦争だけはしない」という決意を持ち続ける
には、どうしたらいいのか… だれか一人の天才的なリーダーが現れて
解決してくれるような課題ではありません。

 経験したことがなくても、知ることはできます。
学ぶことはできます。
そして、想像することはできます。

 東西ドイツの統一を果たしたヴァイツゼッカー西ベルリン市長は、
「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目となる。」と述べました。
単純で地道なことですが、戦争を語り継ぐこと。戦争の加害と被害を
見つめ続けること。人間が、時として歯止めない狂気にかられる存在で
あり、自分もまたその人間の一人であること。自分が加害者にならない
ためには、どうしたらいいのか、常に問い続けること。
 これこそ「不断の努力」で、続けることに意味のあることで、しんどさも
伴うことだとは思いますが、そういう姿勢でのみ、人間の狂気も、
戦争という狂気も、食い止められるのだろうと、思います。