2021年3月10日水曜日

東京大空襲から76年

 

 1945年3月10日、東京大空襲がありました。

世界最大規模の被害をもたらした空襲でした。

 戦争が、軍隊と軍隊の一騎打ちなどではなく、一般市民も子どもも

容赦なく犠牲になる大量虐殺であることを、何度でも、何度でも、

思い返し続けましょう。


 子どもたち・生徒たちに戦争の話をして、退屈そうな顔をされること

もあるかもしれません。でもそれはまったく無駄なことではなく、意味

ある種まきです。成長した後、なにかの機会・出会いをきっかけに戦争

の歴史や反戦平和に目を向ける時が来るでしょう。その時に頭のすみっこ

に知識・教養があるのと無いとでは、雲泥の差です。

 その時を信じて、種をまきましょう。


<東京大空襲・戦災資料センター>

 https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/


<サイトから一部抜粋>

 3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の

焼夷弾を投下した空襲でした。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、

そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。これにより、大火災

を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を

投下する目印となる照明の役割を果たしました。

 火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や

南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋

区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川

放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋

は約27万戸、罹災者は約100万人でした。

 木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、

大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も

火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられ

なかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲と

なったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、

バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことが

できないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、

水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。

<抜粋終わり>