2019年7月29日月曜日

「生産性のない学問」には予算をつけない 学問と人への冒涜です



 国立大学への運営費交付金について、財務省の要求
  ↓
「研究の生産性など客観的な指標に基づき、成果に応じて配分する
枠を拡大、大学の自己評価に応じて配る枠を削減。」


● 国立大予算の成果反映拡大、財務省が要求 調整難航も (日経)
 https://r.nikkei.com/article/DGXMZO47776300V20C19A7EE8000?s=2


 学問研究を「生産性・成果」で評価するとは…( ゚Д゚)

 じゃあ、哲学の生産性・成果、ってなんでしょうね。

文学の生産性・成果、って。

歴史学の生産性・成果、って。

マルクス経済学はどうでしょう?

数学や基礎研究の生産性・成果ってなんでしょう?


ありませんよね?


これら全部、役立たずだ、と。
だから全てつぶす、と。


 「即戦力になるかどうか」で学問研究を評価するのは、人の
価値を「役に立つか立たないか」で評価することと同じくらい
愚かしいことです。
 小柴博士はニュートリノを捉えてノーベル物理学賞を受賞しま
したが、「役に立つか」どうかが基準であれば受賞は難しかった
でしょう。
 でもみんな、喝采を送ってましたよね??

 学問研究に対する「即戦力になるか」という定規は、
人の「知」や「創造性」そのものをバカにするような、浅はかな
ものです。

 恐竜の化石の発掘も「それ、今すぐなにかの役に立つのか?」
と問われればNoとしか言いようがない。
 けれど人はデイノケイルスの腕の巨大さに目を見張り、
すっげー!!と興奮し、6600万年前に思いを馳せ、もっと
知りたい、と思う。
 その知的営みを「役に立たない」と斬り捨てて予算をつけない
ことが、どれだけ唾棄すべきことか。

 学問は、国家に奉仕するためにあるものではありません。
 権力がそんな定規で学問を図って「役立たず」とみなしたもの
に予算をつけないことはもちろん、学問の自由への重大な侵害
ですが、端的に言えば人間への冒涜に近いことです。