2019年8月6日火曜日

人権の基礎知識:公権力が「表現の良し悪し」を評価してはいけません


 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」での「平和の少女像」
などの展示について、名古屋市の河村市長は展示を視察後、展示へ
の嫌悪を表明し、愛知県知事に展示の中止を求めました。

 その後テロ予告などもあり、知事と芸術監督の判断で、展示は
本当に中止になってしまいました。


● 名古屋市長、関係者に謝罪要求 少女像展示で (共同)
 https://this.kiji.is/530378433990181985?c=39550187727945729


 河村市長の表現への恫喝と介入は、重大すぎるほど重大な
「表現の自由」への侵害です。
 市長は、中止を決めた決定権者ではありませんが、実行委員会
メンバーとして影響力があり、発言が事実上の圧力になった
ことは明らかです。

 そして、その発言からは、市長に憲法や人権の基本的な理解が
まったくないことが明らかになっています。


 例えば、
 「慰安婦を象徴する少女像の展示は『数十万人も強制的に収容
した』という韓国側の主張を認めたことになる」→だから展示は
撤去してしかるべき。
 「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの。いかん
と思う」


 名誉棄損や侮辱、近年ではヘイトスピーチなど、「人の尊厳・
命を具体的におびやかす犯罪」として例外にされたものは途方も
なく長い議論の末に「表現の自由」の例外とされました。
 それ以外のものを「表現の自由の範疇にない!」という場合には
よくよく、慎重に吟味しなければなりません。


 表現したいことを表現したいときに表現したいスタイルで表現
する自由は、人間が個人として生きていく上では決定的に重要な
ものです。
 自分らしく生きる。自分が「なりたい自分」に近づく。
 そのために表現は欠かせません。

 また、表現できなければ、議論が成り立たないからです。
 ものを知り、考え、議論し、反論され、また考え、表現し、議論
する。
 この永遠のループ、知的な営みがなければ、民主主義がまともに
機能するわけがないんどえす。
 民主主義の歯車を正常に回し続けるためには、自由に意見が飛び
交う社会を保持しなければならない。
 だから人の「表現の自由」を公権力が奪ってはならないのです。


 そこへ来て、河村市長の発言。

 日本国民の心を踏みにじるからいかん??

 日本人の心とか、そんなつかみどころのない、誰も確かめられない
ものを理由に表現の自由を奪っていいわけがない。


 ここには2つの気持ち悪さがあります。

① この作品が“日本国民の心”を踏みにじってる」のかどうか、
なんで市長が判断できるのでしょうか。
 判断できるわけありませんよね。「え?私の心、別に踏みにじら
れてないんだけど。」という方は少なからずいらっしゃいます。
誰も判断できないようなものを持ち出して勝手に「踏みにじってる」
と認定する。
 公権力が「国の名誉」「国民の心」「国益」など、ボヤっとした
つかみどころのない概念を持ち出したときは、警戒すべきです。
それは公権力の胸三寸でどうとでも形を変え、公権力の都合のいい
方向に政治を動かす根拠として登場するからです。


② 公権力が、その意味不明なものを理由に「だからこの作品は
良い/悪い」と評価することは、「表現の自由」の侵害です。
(上手か下手かという意味の「良し悪し」のことではなく、「表現
の自由」の枠内か例外か、という意味の「良し悪し」です。)
 その作品がよい作品か悪い作品か、判断するのは主権者国民です。
だから作品は展示されるべきなのです。公権力が「国民は、公権力
がお墨付きを与えた“良い作品”だけ見てればいいんだ」と勝手に
作品の良しあしを評価するなんて、ありえないのです。
 繰り返しますが、その表現が良いか悪いかを評価するのは、
主権者国民です。
 「すごくいいね」「え~~、ビミョーじゃない?」「でもこういう
見方もあるよね」とみんなが議論して価値を確認し合えばいい。
そうやって社会は、人々は、いい方向に進んでいけるし、より一段
高いステージに向かえるのです。


 まずは、この点を、何度でも確認しませんか。