2019年8月29日木曜日

政治的メッセージは「表現の自由」の範囲外!?トンデモな黒岩知事の暴言


 あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」が、
公権力の恫喝やテロ予告などにより中止に追い込まれました。
 その件につき、神奈川県の黒岩知事が「私もメディア出身。表現の
自由は非常に大事だが、何でも許されるわけではない」「あれは表現
の自由ではなく、極めて明確な政治的メッセージ。県の税金を使って
後押しすることになり、県民の理解は得られない。絶対に(開催を)
認めない」などと発言しました。


● 「表現の自由逸脱。開催認めない」愛知の芸術祭で黒岩知事 (神奈川新聞)   
  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190827-00000016-kana-l14


 「私もメディア出身」とわざわざ名乗るだけあり、このガッカリ感
には言葉もありません。

 表現の自由がなぜ決定的に大事だと言われているか、というと、
①それが保障されていないと民主主義の政治が正常にまわらないから、
という点と、
②いったん傷つくと回復できないから、
という点があります。


 人がある問題について考え、意見を言う(表現する)。
 するとその意見を聞いた人がそれを受けてさらに考える。
意見交換できる。議論もできる。
 異なる意見が飛び交い、人はより深く考える。また議論する。
 抱いた意見・主張から共感できる政治家・政党に投票する。
 政治家が選ばれ、新たに政治が動く。
 それを受けて、人はまた考え、賛否にわかれ、議論する。

 この知的な営みの永遠の繰り返しにより、民主主義の政治は正常に
動きます。

 ですから人が政治について語れなければ、誰もなにも議論できず、
政治がどうあるべきか深く考えることもできず、民主主義など絵に
描いた餅なのです。

 政治に関する表現は、特に保障されなければならないわけです。


 また、一度表現の自由が制約されてしまうと、それを「こんなの
おかしい!」「憲法違反だから元に戻さなきゃダメだ!」と言いたく
ても、制約されている以上、批判できず、取り戻すアクションが起こ
せない、という大問題があります。

 現政権が、とりわけ政権批判の表現を憎悪していることからも分か
るように、権力にとって、「政権批判の自由」つまり「表現の自由」は
とてもジャマなものであり、いつでも制約したいものです。


 一番狙われやすく、傷つけられやすい基本的人権。
 だからこそ、慎重に慎重に取り扱わなければならず、「それは表現
の自由では保障されない例外でしょ」などと簡単に言ってはいけない
のです。
 (名誉棄損罪、侮辱罪にあたる表現は、「表現の自由」の範疇には
ありませんし、最近ではやっとヘイトスピーチが表現の自由の例外に
あたると言われ始めました。これらが「例外」になるには、途方も
ない長期の議論を要しました。)


 「表現の不自由展・その後」の作品を、政治的メッセージ「だから」
表現の自由では保障されない、という「は???」としか言いようの
ない暴言。

 企画展に公金を出すことがなぜ後押しになるのでしょう。
 それを見て「おかしい」と思えば、「私はこれはおかしいと思う」
と批判を発信して、たくさんたくさん議論すればいいだけのこと。
 何度でも言いますが、公権力は表現の内容に踏み込んではいけない
のです。
 残念ながら、この一言だけで、知事に知事たる資質がないことが
わかります。