2015年10月17日土曜日

はき違えた中立性という病 これ撲滅するワクチンないかなー


 神奈川新聞が、とても意義深い記事を書いています。


「偏ってますが、なにか」
  カナロコ・オピニオン 論を興し民主主義を体現する存在にhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151016-00004511-kana-l14


 解釈改憲や安保関連法案に反対の声をあげて行動に移す方が
たくさん現れて、言論の自由や集会の自由の行使っていうのは
こういうことだなぁ、と思う一方、やはり日本の社会は、なぜか
「政治の話はタブー」という閉塞感いっぱいの空気がただよい、
自由活発な議論を封じようとする圧力を感じます。

 その圧力の一番の「大義名分」が、『政治的中立性』ではありませんか?


 中立性を損ねるから、そのイベントは後援できない。
 中立性の観点から、その集会は許可できない。
 地方自治体は相次いで、『中立性』をタテに、市民が政治を語る場を
奪っています。
 こんなのは最たるものでしょう。
   ↓
 市民活動センター:NPO管理取りやめ 条例改正案、市議会へ さいたま
 
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20151015ddlk11010249000c.html


 市民が自由活発に議論を交わせるように、豊かな言論の場を
提供することで、民主主義の土壌を耕す。これって、地方自治体
の大切な役割ではないでしょうか。『中立性』の名の下に、言論の
場を奪うことは、れっきとした人権問題なのだと、なぜ認識できない
のでしょう、残念でなりません。


 そういった、はき違えた「中立性」をマスコミに求める空気(というか
現実的な圧力)もあります。
 冒頭で紹介した神奈川新聞の記事は、それを明快に一蹴していて、
マスメディアの矜恃を感じさせるものです。
 情報を得て政治を考えれば、なんらかの考えに到達します。
その時点でなんらかの偏りが生じるのはあまりにも当然のこと。
「政治権力を監視し、批判する」ことを最大の使命とするマスメディアが、
政治権力を批判することのどこが「間違った偏り」なのでしょうか。


 「中立性」や「両論併記」を強く強く求める方々というのは、
 例えば、
 「人種差別は良くないという考えもありますが、人種差別はしてよいと
考える人もいます。どちらが正しいか書くと偏ってしまうので、意見は書きません。」
 「ナチスによるホロコーストで何百万人ものユダヤ人が大量虐殺され
ました。が、ホロコーストがなかったと主張する人もいます。どちらが
正しいか書くと中立性を損なうので、書きません。」
 こんな記事を、正しい記事だと考えるのでしょうか。


 中立性という言葉にからめとられて、自由で豊かな言論が妨げ
られては本末転倒です。
 マスメディアがしっかり政府を批判し、それに政府が正々堂々と応える。
それを見て聞いて、市民が議論する。これが民主主義の正常なサイクル
の土壌になります。
 
 安保関連法案に反対する集会が「中立性」を理由に許可されない
社会は、賛成する集会も「中立性」を理由に許可されません。
 冒頭の神奈川新聞の記事は、こう締めくくられています。

「民主主義の要諦は多様性にある。一人一人、望むままの生き方が
保障されるには、それぞれが違っていてよい、違っているからこそよい
という価値観が保たれていなければならない。それにはまず自らが
多様なうちの一人でいることだ。
 だから空気など読まない。忖度(そんたく)しない。おもねらない。

孤立を恐れず、むしろ誇る。偏っているという批判に「ええ、偏って
いますが、何か」と答える。そして、私が偏っていることが結果的に、
あなたが誰かを偏っていると批判する権利を守ることになるんですよ、
と言い添える。
 ほかの誰のものでもない自らの言葉で絶えず論を興し、そうして

民主主義を体現する存在として新聞はありたい。」