夫婦別姓という選択肢を求める人の思い、日本の「家族観」についての
充実した特集記事のご紹介です。
●(あのとき・それから)1898年 夫婦同姓を制度化
「姓は人格」移ろう家族観 (朝日)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13580855.html?_requesturl=articles%2FDA3S13580855.html&rm=150
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13580855.html?_requesturl=articles%2FDA3S13580855.html&rm=150
「結婚したらどちらかが(事実上ほとんど妻が)相手の姓に変える」
という日本のシステム、多くの人が「古くからの日本の伝統」だと思って
いませんか?
また、「そういう国、他にもあるでしょ」と思っていませんか?
記事の中で注目すべきなのはこちら↓
《奈良時代、夫婦は同じ戸籍でも姓は別々だった。明治の戸籍制度でも、
《奈良時代、夫婦は同じ戸籍でも姓は別々だった。明治の戸籍制度でも、
1876年の太政官指令で、妻は「所生ノ氏」(実家の氏)を用いること
とされた。夫婦同姓が公式に制度化されたのは1898年成立の旧民法から
だ。つまり「伝統」といってもせいぜい120年のことである。》
ぜーんぜん「伝統」でもなんでもなく、明治政府が作ったものだったのですね。
そして、こちらにも注目↓
《2015年10月6日付の参議院の政府答弁書は「『法律で夫婦の姓を
《2015年10月6日付の参議院の政府答弁書は「『法律で夫婦の姓を
同姓とするように義務付けている国』は、我が国のほかには承知していない」
としている。》
国連がかさねがさね日本政府に対し選択的夫婦別姓の導入を勧告している
とおり、「結婚したらどちらかが姓を変えなければならない」日本の制度は、
国際的に見て「人権上ヤバい」ということです。
今の制度を何の疑問も抱かずに生きるにとっては、「結婚で名前を変える
ことくらいが、なんでそんなに苦しいの?」と思うかもしれません。
けれど現実に、生れた時から自分の一部だった「氏名」が、結婚によって
「本名」でなくなったことで、例えようもない喪失感に襲われたり、自分が
引き裂かれるような苦しみを感じる人が少なくないのです。
人数の問題ではなく、一人でもこうした尊厳の危機に立たせてしまう制度は、
憲法上許されないのです。
最高裁判事だった泉弁護士が指摘するように、今の制度を憲法上問題ない
という判決を出した最高裁には、「尊厳ある個人と個人が結婚して家族が
作られ、それがもっと集まって社会ができる」という基本的な発想が欠けて
います。
そう、「自分らしく生きる」個人が集まってこその家族であり社会であり、
国家である。
家族という共同体の「結束」を、個人の尊厳よりも大事なものかのように
優先させて、夫婦別姓という選択を認めないのは、あまりにも時代錯誤です。