2014年6月15日日曜日

「限定」?「必要最小限」?そんな言葉にはごまかされませんYO!



 「限定品」に弱い日本人 …そんな言葉を頭がよぎります。
 日本限定モデルとか、オープン初日限りとか聞くと、ついつい
並んでしまう、あの感覚。




 そんな話とは全然違いますが、「限定」という言葉にからめ
とられる方が、やはり少なくないのかなぁと思う、今日この頃です。
そうです、集団的自衛権の話です。




 自民党と公明党との間で、集団的自衛権の行使容認をめぐる
協議が続いています。ここ最近では、公明党が「限定的」な行使を
容認する方向で調整に入ったという報道が流れています。
http://digital.asahi.com/articles/ASG6D64K7G6DUTFK017.html?_requesturl=articles%2FASG6D64K7G6DUTFK017.htmlamp




 集団的自衛権の行使を「限定」して容認する方向で党内調整に…ほほぅ。
 自民党も以前からそう説明していますが、「限定的」で「必要
最小限」の行使なら、国民の理解が得られる、と考えたのでしょうか。
 




 これを読んでおられる皆さまも、こう思われますか?
 「集団的自衛権の行使はなんとなく不安だけど、限定的な行使なら
いいんじゃないかな?」
 「必要最小限の武力行使なら、まぁ、憲法9条の枠内なんじゃないかな?」
 





 でも、よーーーーく考えてみてください。
 集団的自衛権の行使とは、すなわち他国間の戦争に参戦する
ことです。当事者でないのに、殺し合いに参加することです。
 それは日本が戦後70年間、戦争放棄を宣言し、軍隊を派遣
しない形での国際貢献のあり方とは何かを模索し続け、成功し、
信頼を勝ち得てきたその積み重ねと歴史をかなぐり捨てることです。
 国家の都合で国民(自衛官)が人を殺せと命じられ、殺しあいをし、
あるいは殺される国家へと変わることです。




 現政権は、まるで、従来の政府見解をがらりと変えることを
国民に知られたくないかのように、「今までレベル50まで許され
ていた自衛権行使をレベル60まで広げるだけですよ」みたいな
話をしているように思えます。
  でも、
 「ちょっとだけ、国のあり方を根本的に変えるだけだよ」
 「少しだけ、戦争する国になるだけだよ」
 どんなに「限定的行使」といったって、
 どんなに「必要最小限度」といわれたって、
 戦争放棄が放棄され、憲法9条が空文化する、という事の本質は
何も変わりません。




 それに、日本がどんなに「必要最小限度の武力行使です」と
言ったところで、集団的自衛権行使の名の下に参戦すれば、
日本からの攻撃を受けた側は、攻撃を受けたその瞬間、日本を
「敵国」認定し、攻撃の対象と見なすわけです。
 それは全く量的な問題ではなく、相手国が、「小さなミサイル
だったから、まぁ許してやろう」とか、「1~2人しか殺されていない
から、目をつぶってやろう」などと判断するわけもないのです。
それはまぎれもなく、戦闘状態への突入なのです。




 公明党の議員さんたちはおそらく、与党協議を進める上で
さまざまな方向からの圧力を受けておられることでしょう。
9条護持を掲げる平和の党としての矜恃を忘れることなく、
信念を貫けるかどうかの正念場であることは間違いありません。
「限定的」「必要最小限」なる言葉でご自分たち自身を欺くような
ことが万が一にもあったとすれば、その瞬間、「平和の党」の看板
は下げることになることも、一番よく分かりのはずです。
私たちは、その良心に期待します。




 もう誰1人も、「限定的」とか「必要最小限度」などという言葉の
罠でごまかされることなく、問題の本質を見つめていただきたい
と思って止みません。
 また、現政権はそういった言葉ではぐらかさずに、せめて、
「戦争できる国にしたいから、憲法の読み方も変えたいんです
。いい理屈はぜんぜん思いつかないんだけれど、僕たちの執念
を黙って見ててください。」と本音を語ってほしいものです(そんな
姑息な考え、一刻も早く変えていただくのが一番なんですけどね!)