2014年6月13日金曜日

エンタメ憲法シリーズ 「火垂るの墓」と憲法


 集団的自衛権の行使容認について、自民党と公明党の間で議論がされて、これまで平和主義を掲げてきた公明党が苦しい立場に置かれているような報道もされていて、かなり切迫した状況になってきています。

 あすわかのサイトをご覧の皆さんはご存じのとおり、集団的自衛権というのは、日本が攻撃されていないにもかかわらず、他国を守るための戦争に行くものです。安倍首相は、細かく事例を挙げているようですが、なぜかもっとも中心的な事例、つまりアメリカから「どこかの国に対して自衛権を行使するから援軍に来い」と言われた場合を取り上げていないのが不思議です。口では、「イラクに行くようなことはない」と言っていても、いつまた解釈を変えるか分かりません。TPP交渉には入らないと言っていたのに入ったし、アンダーコントロールと言っていた汚染水はコントロールできていないし。

 それで、集団的自衛権を行使した場合、その「どこかの国」からすれば、自分が日本を攻撃していないにもかかわらず日本から攻撃されたわけですから、日本に対して反撃してきますよね。すると、自衛隊に対してだけでなく、日本自体を標的にしてくることもあるわけです。つまり、日本が集団的自衛権の行使をしなければ、日本が攻撃されることはなかったのに、行使したばっかりに日本が戦場になる可能性があるということです。
 
 最近、アメリカは先制自衛的にテロ集団を攻撃していますが、それに日本が加わったら、今度はテロ集団が日本を狙うことになる可能性があります。そして、日本には原発が51基もありますから、標的はたくさんあるわけです。日本を守るために集団的自衛権を認める必要があるんだと言われることがありますが、どこかの国から侵略される前に、日本が集団的自衛権で他国に攻撃をしたら、侵略される前から、自分から先に戦争に巻き込まれていくことになりかねません。そして、戦争になると、どれだけ国民が苦しむのかということは、「火垂るの墓」で描かれていたとおりです。

 「火垂るの墓」では、空襲で母親を失った兄と妹が、苦しい生活の中でも無邪気に遊ぶ姿も描かれていました。しかし、生活はどんどん苦しくなっていって、兄は盗みをするようになり、とうとう妹が…という、大変重たい作品です。でも、戦争の現実から目をそむけてはいけないと思いましたし、戦争で苦しむのは社会の中で一番弱いところにいる人たちなんだということも実感しました。「塗炭の苦しみ」ということの意味が、「火垂るの墓」を見て分かったような気がします。

 実は、複数のあすわかメンバーが、「火垂るの墓」を見て、トラウマになっているそうです。でも、敢えて言わせていただくと、トラウマになるくらいの方がいいと思うんです。戦争を知る世代が少なくなってきて、日本人も血を流すべきだという政治家もいますから。戦争で苦しむのは戦場にいる自衛隊だけではなく、国民も苦しむことになるんですよね。

 それだけ苦しい思いをしたから、いくら押し付け憲法と言われても、戦争が終わってから、国民は平和主義をうたう日本国憲法を歓迎したんじゃないかと思うんです。今年5月3日に開催された秘密保護法に反対する学生デモのときに、学生たちが言っていました。「押し付け憲法という人がいるけれど、こんなに素敵な憲法をプレゼントしてくれたアメリカにありがとうと言いたい」と。

 話は集団的自衛権に戻りまして、容認すべきという人は必要性ばかりを主張されますが、まずその必要性自体が本当にそうなのかという疑問があります。確かに、アジアの緊張が高まってきているようにも感じられますが、安倍首相自身が靖国神社を参拝する等して緊張を高めている要素もあるように思われます。そして、安倍首相が中国を訪問したのは、野田首相が日中韓サミットで北京に行った2012年5月以来、もう4年もありません。果たして、外交努力は十分にされているのでしょうか。

 そして、仮に必要性があるとしても、立憲主義からすると、勝手なことをしてはいけないのです。政治や行政は、法律の根拠なくしてはいけないし、憲法に違反してはならないのです。まず、憲法を改正すべきかどうかを、国民に問うべきなのです。憲法のせいで国民が守れないのではなくて、戦争に至らしめた政治や外交の負けなんです。もう憲法のせいにするのは止めましょうよ。
 もちろん、日本が攻撃されたら個別的自衛権で必要最小限度の範囲で反撃します。
 
 そして、個別的だろうと集団的だろうと、戦争になってしまったら「火垂るの墓」に描かれていたように、国民は大変苦しむことになってしまいます。集団的自衛権を容認する前に、ちょっと立ち止まって、「火垂るの墓」を見てはいかがでしょうか。69年前に、もう戦争はコリゴリだと思ったはずなんです。