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2017年3月15日水曜日
教育勅語「いいことも書いてあるよ」的な話を聞きますが(-_-;)omg
園児に教育勅語を暗唱させている学校法人「森友学園」。
ついこないだまで首相夫人が名誉校長になっていたり、首相自身が
教育内容を高く評価していたり、あげく、稲田朋美防衛大臣夫妻も
弁護士として深く関わっていたようですね。
稲田防衛大臣は先日、教育勅語を高く評価して「日本が道義国家を
目指すというその精神は今も取り戻すべきだと考えている」と答弁して
いました。
これは昨日もブログ等に書いたことですが、
教育勅語が、まるで、「夫婦仲むつまじく」「友達を信じ合おう」等々、
人間としての徳が書かれた「だけ」のものかのように語られることが、
ままあります。
森友学園の理事長も、「教育勅語がどうして悪い。何かことがあった
ときは自分の身を捨ててでも人のためにがんばりなさい。そういう教育
勅語のどこが悪い」と発言していましたし、稲田大臣の答弁も、同様です。
でも、それは大きな大きな誤解です。
教育勅語は、人間としての徳をただ列挙したもの、ではありません。
それらの『徳目』は、すべて「いざとなったら天皇のために命を捨てて、
永遠に続く天皇の栄光を支える」ために、身につけよ、という書かれて
いるのです。
徳を身につける目的はすべて、天皇のために命を捨てる人間になるため。
教育勅語は、いざとなったら天皇のために命を差し出す「忠実なる臣民」
とは、どういう人間か、を、明治天皇が臣民に「教えてくださった」もの。
これを徹底的に国民に教え込んだ日本は、文字通り軍国主義まっしぐら
の歴史を歩むことが「できました」。
どっからどう見ても、教育勅語は個人の尊厳や、自由、民主主義と
いった発想とは真逆の世界観の文書なのです。
「いいことも書いてある」などと評価する人は、さきほど解説した教育
勅語の「本質」を知らないか、知らないふりをしているか、どちらかです。
そんなところへ、こんな報道がありました。
↓
●教育勅語巡り、松野文科相「教材、配慮あれば問題ない」(朝日)
http://www.asahi.com/articles/ASK3G3DYFK3GUTIL00L.html
松野博一文部科学相が、教育勅語について、憲法や教育基本法に
反しないような配慮があれば「教材として用いることは問題としない」と
の見解を示したとのこと。
どういう「配慮」ある使用方法があるというのだろう(-_-;)、と、途方に
暮れる気持ちになります。
もしかしたら、松野大臣は「教育勅語には夫婦仲むつまじくとか、
いいことも書いてある」と考えている一人なのかもしれません。
そういう夫婦や家族・兄弟・友達との愛情・友情についての「徳」を
生徒に伝えたいのであれば、教育勅語を使わなくても十分教えられます。
わざわざ教育勅語を使う必要など、あるとは思えません。
個人の尊厳、自由、平等、民主主義、国民主権など、近代の人権
思想をベースにした学校教育の現場で、教育勅語を登場させる場面
があるとすれば、ただ1つ。70年前、敗戦まで、国民がどのような思想
に洗脳されていたか、どのような思想をベースに日本がファシズムの
道をひた走ったか、という負の歴史的証拠としてです。
「美しい日本」「日本を取り戻す」とさかんに叫ぶ方が、教育勅語を
高く評価している傾向がある気がします。
どんな国家を、どんな社会を思い描いて「取り戻そう」としているのか、
不安な気持ちにならざるを得ません。